なぜ今があるのか
何か疑問に思った時に、それは何故だろうと繰り返し思案することがあるかと思います。
何故を繰り返すことで答えの終着点が神になることが多い一方で、いわゆる創造主を信じきれないこともあると思います(言葉を選ばなければ自身こそが創造主なのですが…それはまたどこかで書きます)
そんな時は「思案の順番が逆なのでは?」と考えると腹落ちすることがあるかもしれません。
例を挙げると「なぜお腹が減るか」ということに疑問を思った場合に「胃袋にある食物が消化されるから」と答えられるのですが、さらになぜを繰り返すと最後は神のような存在にすがることになるかと思います。(あるいは、そういうモノという諦め。または仕組み的に観測できない。という部分に落ち着くことになるハズです)
その一方で「もしお腹が減らなかった(そのような仕組みを人体が獲得していなかった)場合」を考えると、今のような社会の仕組みになっておらず、そもそも進化の過程で生存競争に勝てずに滅んでいた可能性が高いと考えると、当初の疑問も引っくるめて「すべての要素が今を作っている」という思考になります。
「なぜお腹が減るか」の答えとは乖離がありますが、神にすがる手前で疑問の順番を逆にするとスッキリするかもしれません。
ただこの考えは汎用性が高く強力なので、思考が浅い部分で使用すると「全ての恩恵が神の御心である」のような考えで停止してしまう危険性があり、ギリギリまで思考を粘ったあとに使用しなければいけないと自戒しています。
これら考えをぼんやり持っていた時に以下の「いのちとは何か」を読み、いのちへの理解と、これまでの多くの神にすがっていた疑問の答えについての後押しを得られたので紹介します。
つまり、全ての事柄は「今」を作るための因子であって、そのどれが欠けていたら今は作られない。という話。